【写真・動画】御堂筋kappo2010 / 【法話】仏さまの仲間に入る 於:本願寺津村別院 2010.10.10
9日に続いて10日も本願寺津村別院にて、お聴聞させていただきました。
の前に、この日は「御堂筋kappo2010」という催しがあったので、少し闊歩してきました。以前は「御堂筋パレード」と呼ばれていたものだそうです。
本願寺さんでは、「仏さまの仲間に入る」というお話を聞かせてもらいました。講師は行信教校講師、大野孝顕師です。
以下、メモです。間違いがあれば、気付き次第訂正します。
浄土真宗は聞いて賢くなる教えではありません。本当の自分の姿をを聞かせて頂くのが浄土真宗です。
ブランド品のバッグでも、本物が分かって初めて偽物が分かるものですが、仏様の教えを聞かせて頂き、私たちが偽の人生を生きていることを知らせて頂くことが出来ます。
迷っている私たちに、あなたは仏の子なんだよ、と阿弥陀さまは呼びかけられておられます。どうか、「なんまんだぶ」と称えてくれ、責任を持って本当のいのちを与えてみせる、と阿弥陀さまは誓っておられます。
私たちが幸せになるのを喜ばれ、苦しんでいると一緒に悲しんで下さるのが阿弥陀さまです。
それに対し人間は、他人が幸せそうにしていると妬み嫉みの心が出てきます。そうやって身を煩い心を悩ませるのが煩悩です。私たちは煩悩によってできているので「煩悩具足」と言われます。そしてそんな姿を、自分に恥ずる心(慚)も天に恥ずる心(愧)もないのが私たちです。
しかし、煩悩具足というのは、つまらない身、ということではありません。煩悩具足の我が身を知らせて頂くのは素晴らしいことであります。
煩悩を恥ずかしい、あさましいとブレーキをかけてくださるのが「なんまんだぶつ」のお働きです。
私たちは褒められると有頂天になり、貶されると沈んでしまいますが、それは煩悩があるからです。しかし、そんな煩悩の塊の私たちを、あさましいと見捨てるのではなく、仏の子と、呼びかけられているのです。
それが本願力です。
本願力は向こうにあるのではありません。お念仏となって常に私たちに働きかけて下さっています。「なんまんだぶつ」と称えるのは私の力ではなく、阿弥陀さまが声となって私の口から出て下さっているのです。
「南無阿弥陀仏」のことを名号と言いますが、「名」という字は、「夕」に「口」と書きます。夕方になると暗くなって姿が見えなくなります。姿が見えなくても私の名を口で称えなさい、見えなくても私はここにいますよ、と呼びかけられているのが阿弥陀さまです。
「なんまんだぶつ」には、私たちに仏の名を言わしめ、願いを聞かせる力があります。仏様が名前となって私に聞かせて下さっているのです。
「南無阿弥陀仏」は「信心の知恵」と言われます。煩悩を恥ずかしいと思う心など、人間から出てきません。仏様の知恵によるものなのです。
煩悩あるがままで、南無阿弥陀仏の知恵を頂いて救われるのが浄土の教えです。
私たちが「なんまんだぶつ」と称えているのではありません。仏様のお力が働いてくださっているのです。
迷っている私達を必ず浄土に往生させると誓っておられるのですが、私たちが「助けてください」と言うから助けてくださるのではありません。私たちが気づく前に、阿弥陀さまの方から「必ず助ける」と誓っておられるのです。
これを「必定往生」と説かれています。
生まれてきた人は必ず死んでしまいます。しかしそれは死んで行くのではなく、浄土に生まれて往くのです。
本当に浄土に生まれるのでしょうか?という疑問が出てきたら阿弥陀さまに聞いてください。その疑いが晴れたのが信心です。なんまんだぶ、なんまんだぶ。
私たちは世間ごとの娯楽なら大好きですが、どうして今、こうして仏法を聞いているのですか? 仏法を聞くのが嫌だと逃げる者を、なんとか「なんまんだぶ」と称えさせる身にさせようと、働きかけてくださっているのです。
観無量寿経に
光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨
とあります。阿弥陀さまのお力は十方世界に働いておられるのです。私たちが仏様を忘れている時も仏様は決して私たちを忘れてはおられません。必ず浄土に生まれさせてやりたい、と念じておられます。
必ず浄土に生まれると定まっている人を「正定聚」と言います。親鸞聖人は、今、「なんまんだぶつ」と称えている私たちが正定聚の仲間入りさせていただけるのだ、と教えられました。それまでは、それは煩悩の滅した聖者だけのことと思われていたのですが、親鸞聖人は、煩悩が障りとならず救われるのが阿弥陀さまのお慈悲だと仰いました。
煩悩あるがままで、煩悩が障りとならないとはどういうことでしょう。譬えるならこうです。水に沈む石でも、船に乗せたら沈みませんよね。でも決して石が軽くなったのではありません。船の力で石は浮かぶのです。
本願の船に乗ったら、煩悩が変わらないまま弥勒菩薩と同じになると教えられます。弥勒菩薩は一生を終えると仏様に生まれる菩薩です。お経には「一生補処」とあります。ただし、弥勒菩薩の一生が終わるのは56億7000万年後です。それに対し、私たちはあとどれだけ生きておれることでしょう。
五十六億七千万 弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし(親鸞聖人・正像末和讃)
「なんまんだぶ」と称える人は、煩悩あるがまま救われる。それが分陀利華(ふんだりけ)です。分陀利華とは白蓮華のことです。蓮華はどこで咲きますか? 汚いドロドロの泥沼に綺麗な花を咲かせるのが蓮華です。
煩悩に穢れた私たちに、真実の信心の花がひらく。これが浄土のみ教えです。
最後に、梯和上のお言葉を紹介します。
この世で不幸な人とは、人生かけて求めるものが分からず、あれやこれやと手を出すが、あれもダメ、これもダメ、と迷っている人です。地位、名誉、財産、、、これらは生きる上で大切なものです。しかし、人生の景色ではあっても最終的に求めるものではありません。すべては死を契機に離れていってしまうのです。死んでも離れて下さらない阿弥陀さまとあわせていただくことが、人生かけて求めてゆくべきことなのです。
(といった内容[記録者・注])
- 【法話】阿弥陀経のこころ 於:本願寺津村別院 2010.10.09
- 常例布教(築地本願寺)2010.09.05
- 【本】増井悟朗 / 念仏の雄叫び (前半)
- hide 十三回忌 @築地本願寺 2010.05.02
- 人生の目的は「無碍の一道」 / 『歎異抄』第七章
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